5月16日のクロ現は、「
動き出した小学校英語」でした。
僕は、今でも小学校で英語を教えることに懐疑的。
中央教育審議会外国語部会のメンバーの英語コンプレックスを、生徒や教育現場に転嫁させないで欲しいというのが、正直なところです。いくら外国語教育のイイ先生が現場に配属されても大人数教室では意味がないとか、既存の科目に英語が加わることでさらに学力格差が広がる(どころか格差拡大を加速させる)という懸念もあります。
でも、この番組で、ひとつおもしろい取り組みをみて、「あ、これは日本の教育が変わるかもしれない」という可能性も見付けました。
それは、先生が生徒と一緒に学びあうという、アンチ・マッチョ的な教育スタイルです。
これまで、教師は「すべて知っている」「すべてできる」というマッチョな姿勢が前提で、上から生徒に「教えてやる」という一方通行が基本にあったと思います。授業が子どもに理解されないのは、授業方法にも原因があるが、それ以上に子ども達の家庭教育にも原因があるというような空気を、僕は感じていました。生徒側も、「先生の教え方が悪いからダメだ」という認識もあるように感じます。
この番組の中で、京都市の小学校教師だったと思うけど、出前研修の人と「これでどうやろか?」「こんなんでわかってくれるやろか?」と模索しながら、不完全ながらも授業で「どぉ?」と子ども達に講義していました。そして、子どもが授業を楽しんでくれた。これは「通じた」というコミュニケーションを授業という枠で行うことであり、言語を学ぶ(学びたいと思う)時の原動力でもあると思いました。
スタジオゲストの市川力さんは、『
「教えない」英語教育』『
英語を子どもに教えるな』を書いていて、NHKは思い切った人をゲストに呼んだなぁと思ってたんだけど、この人の口から「教師が生徒と共に学びながら、コミュニケーションの楽しさや喜びを感じるキッカケに」という感じの発言があった時、あ、これはアンチ・マッチョ教育やんか!と共感しました。
つまり、権威的で「教師のいうコトに黙って従えばよい」というマッチョ教師達は、英語教育が導入されることで、英語の発音もままならない恥ずかしい自分を、生徒に見せることになる。その時に「屈辱」と思うか、それとも「ま、所詮自分はこの程度。一緒に英語やってみようヤン?」と言えるかが、マッチョとアンチ・マッチョの境目だろう。屈辱と受け取る人は、「いかにしてALTを確保するか?」というコトに行動を向かわせると思うけど、それは自分の学力を疑っている姿でもあると思うんです。
僕は、Bostonでもアニルさんと一緒にいる時でも、加奈子に英語と格闘する姿を見せてきた。通じなくて「え゛~困ったなぁ」という時もあったし、「あ!それそれ!わかってくれた?!」という時もあった。これはこれで良かったんやな~と確信を得た感じだ。