今日から始まったもう一つの看護専門学校。
なぜか、この学校には、数年に一人もしくは数名、あるパターンの学生がいます。今年は、いてはりました。まったくいない年もあるんですけどね。
どういう学生か?というと、いわゆる障がい者、要介護高齢者、被虐待児…といった、社会福祉法制度でいう「対象者」に対する社会サービスのみを社会福祉と、勝手にイメージしていて、それ以外の話は「余談」「脱線」と思っている学生です。
これは、細切れで単元に分断化された学校教育を受け、中途半端に成績を取ってきた学生によく見られる症状です。かわいそうなのですが、このタイプの学生には、付ける薬がありません。なにを言っても、「それはどの科目の話ですか?」という頭のスイッチしかないのです。
今日の講義では、大切なことをレジュメで先に配りました。ホンマに要領のイイ学生は、先にそれを読んで、僕の話との関連を頭の中で組み立てます。
今日は、僕自身の話と、「いい出会いのためにするべきコト」という話をしました。
僕の社会福祉の講義は、いつも「福祉とは?」という話を最初にします。最後の講義では、「自分の『よりよき生(well-being)』についての話」で締めます。
学生自身が
どう生きるか?
どういう人生選択をするか?
そのために必要なモノはなにか?
自分は自分に何をすべきか?
自分はどう考えるべきか?
社会になにを期待するか?
自分は社会に何ができるか?
だいたいこんな話です。
障がい者、要介護高齢者、被虐待児、DV被害者、生活困窮者…こういった人達だけの「福祉」ではありません。「それはどの科目の話?」という学生は、残念ながらこういった人達の話と自分の話が分断されているのです。
これこそが、「自分には関係ない」「科目にない」と表れる「心のバリア」なのです。どんなに「バリアフリー」がすすんでも、「社会福祉は自分には関係ない」「社会福祉は可愛そうな人達のためのモノ」では、ダメなんです。
見事に、引っ掛かってくれました。中途半端な学生は引っ掛かるのです。
ものすごく賢い学生は、こんなコトを言うまでもなく、全部を自分のモノに引っ掛けていきます。例え、今、障がいと分類される心身状態でなくても、「自分が事故でそうなったら」「自分の子どもがそういう状態で生まれてきたら」という想像ができます。想像力は、賢さの反映です。
小賢しくない素朴な学生は、「へぇ~こんな人がいるんやぁ」「自分も家事する夫に巡り会えるやろか?」「いい巡り合わせに出会えるやろか?」と素直に話を聞いています。
いい講義のネタができました。
これは講演でも同じです。
「主夫の子育て」や「男の家事」を話していても、「それは、あなたの家のこと。私には関係のない話」という感じで、頭の中で分断して聞いてる人がいます。アンケートには、そのことをツラツラと書いてくる方もいます。どんな話を聞いても「自分の実」にできる人がいる半面、どんなに素晴らしい話を聞いても、「関係ない話だった」としか捉えられない人がいます。
これはシャーナイことですね。