「『時間が欲しい!』は、手段への要望」と
「時間が欲しい!」 でチョロッと書きました。また、さっき書いた中に
「大儲けしたい!」という系統の野心がまったく欠落していてというのも書きました、
最近、この種のコトについて考える時間がありました。身近に、「広い家に住みたい」「格好いい自動車に乗りたい」「お金持ちになりたい」という人がけっこういます。それはそれで、その人の望みや憧れであって、とやかく言うつもりはありません。ただ、そういう人達の中には、「他人も自分と同じだろう」と思っていることも多いので、ちょっと違う僕のスタンスも書いておきたくなりました。
僕はそういった、広い家や格好いい自動車やお金には、あんまり価値を見出せず、むしろ虚しさを感じています。もちろん、前提として、今、僕は人並みに食べていける安定した生活をしているというのがあります。僕も食べていくのがやっとだった時は、「もうちょっとお金に余裕があれば」と思ったことはあります。「価値を見出せない」「虚しい」というのは、最低限度以上の「ある程度」の現状が手に入っているうえでの話しになります。欠乏からくる憧れを否定するつもりは毛頭ありません。それを踏まえたうえでの話しです。
「家事は、楽しい生活のための手段であって、いくら頑張って家事をしても、生活自体が楽しくなければ意味がない」というのを、「
プロ主夫山田亮の手抜き家事のススメ」にも書いてます。僕のスタンスは、すべてコレに集約されます。
「家事」は、あらゆるモノに置き換えていうコトができます。家事力を計算力に変えてもいいし、脳を鍛えるでもいい。潜在能力や可能性を引き出すのも、資格をとるというのでもいい。果ては「成功」という評価それ自体も含めて、これらはすべて、「その先のモノ」への手段です。お金も家も自動車も同じく、すべては「それを何に、どう使うか?」「それを手に入れて、どうしたいか?」という道具や手段です。
ところが、それらの手段を、「どうやって、なにに使えばいいのか?」は誰も教えてくれません。自分で見付けるしかないのです。実際は、その先のモノはそんなに多様じゃないような気がします。「家事」という手段に対して、僕は「生活自体が楽しければ」という、一つの目的を書きました。人やモノによっては「幸せな生活」「安息の時間」などもあると思います。
「家に帰ってホッとしたいから広い家に住みたい」と思う気持ちは、とってもよく分かります。狭くてモノだらけの家では、なかなかホッとできません。ところが、ホッとするには、必ずしも広い家である必要はないのです。どんなに広くても、家族の仲が悪ければ、とてもじゃないけどホッとはできません。
どんなに美味しい料理を頑張って作っても、一緒にいるのもイヤな人と食べていたのでは、意味がない(味がない)ような気がします。それでも、美味しい料理を作り続けるコトに価値を見出そうとする生き方もあるでしょうが、僕には理解できません。それは現実逃避でしょう。
ふと考えるのですが、今、僕達の周りには、「手段」に対する情報や物質的な集中がある半面、「目的」を語れなかったり、実感できない空虚さがあふれているような気がします。その空虚さを埋めるために、ひたすら手段に走っているのでは?と思うコトがあります。
「時間が欲しい」から、あれこれ考えました。